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歴史・地理 その6「世界三大無用の長物? 戦艦大和 その戦略的意義」


本 世に「世界の三大無用の長物」なる言葉があります。「長物」とは「場所をとるばかりで、役に立たないもの」。それに「無用」まで付くのですからエライ言われようです。その三つとは「ピラミッド、万里の長城、戦艦大和」だそうです。何故か「凱旋門」や「日本の新幹線、青函トンネル」が入る事もあるようです。まあ、「世界の…」とか「三大…」というものはどこにでもあるものなので、出典や明確な根拠など無く、多くの人が言っている与太話のようなものでしょう。

正直な話、心情的にはそこに「戦艦大和」が入る事にムッとはします。そこで、与太話には与太話で反論を試みてみたいと思います。私は日本人ですから当然、この国の文化と自然が好きです。愛国心などという言葉は、意味無しです。その上で、「戦艦大和」のことはいずれテクノロジーの編で書いてみようと思っていましたが、歴史的にこの日本という国で生まれ、今でも多くの人(戦争を知らない世代まで)の記憶に生き続けている訳ですから、この編で書いてみたいと思います。率直に言って、「長物」なる「茶化し」に対するささやかな反論です。まあ、もしかしたら日本人の「敗戦故の自嘲」的な心理から言われているだけかもしれませんけど。
   
ある意味では「万里の長城」「ピラミッド」と並び称されているとすれば、それはそれで名誉(?)な事でしょうが、「戦略」なるものを多少なりとも理解できる人(言葉として使っているだけでなく)なら三つのどれもが「戦略的」には長物どころか、それらが持っている底深い意義に感嘆すると思います。私にとって「戦略」の定義は「目的(戦いに勝つ)に対して永続的に自らを有利な立場とするための方策」です。愛用の新解さんでは「戦争・政治闘争・社会運動などで、敵に勝つための・大局的(総合的な)方法」とアッサリ書かれています。「万里の長城」は春秋戦国時代から各国がそれぞれに作っていたようですが、秦の時代に本格的な建設が行われ始め、その大部分は明代に建造されたものだそうです。その「長城」建造の目的はひとつ。「北からの侵略を防ぐため」。中国の歴史は北の(中華が呼ぶところの)蛮族と漢民族との王朝変遷の歴史です。中国北方の民族がこの長城を見た時に何を感じるでしょうか? 当然「入り難い」だけではなく、中国の国力と技術力でしょう。それは敵を挫きます。ピラミッドは一説によると国家統一のために行われた大公共事業とも言われています。(話を簡単にするため)その真偽は置いといて、もしそうなら、国家建設のためのシンボルとして、多くの人間に「国家・国民」という高揚感を与え、その意識を一気にまとめ上げた事でしょう。それが「戦略」です。
   
具体的に役に立つかどうかは「戦術」レベルの事です。簡単に言えば「戦争に勝つために鉄(戦略物資)の産地を押さえ、武器の生産能力を上げ」、そして「優秀な軍隊を整え、作戦能力を上げる」のが戦略と戦術の関係です。細かく述べると長くなりますので、この辺で能書きは終わりにして、「戦艦大和」は、戦術的には悲しい最期を遂げる事になりましたが、その存在には決して小さくない「戦略的意義」があったと、私は考えます。確かに、当時の「航空機による制空権確保」が戦略の要となっていた時代に「巨艦大砲主義」は誤りであったかもしれません。「航空機による攻撃の威力」を世界で初めて見せつけた旧帝国海軍(山本五十六)が、それに逆行したのは歴史の皮肉としか言えません。とはいえ、弁護ではありませんが、旧帝国海軍の空母、航空機保有数がお粗末であった訳ではありません。勝てないにしても(もしかしたら勝てた可能性も…)、アジアで唯一あのアメリカと一騎打ちできるだけの機械力を旧日本帝国海軍は有していました。ミッドウエーで息の根を止められましたけど(虎の子の空母を全部沈められて…)、その上での巨艦大砲「戦艦大和」です。
    
その戦略的意義(価値)をできるだけ簡略に言えば、「戦艦大和」の主砲46cm(18インチ)砲は40kmの射程を持っていたそうですが、要するに、敵艦はこの中に入れません。相手の主砲が射程35kmだとすれば、40kmに距離を縮められると、相手は一方的にやられるしかありません。もちろん砲術の練度もありますが(大和の主砲が35km先の敵軍事施設に命中した記録があるそうです。神業…)、旧日本海軍の砲撃精度は日露戦争の日本海海戦から世界トップクラスです(猛演習の賜物でしょう)。別に、私は特別、軍事に興味がある訳ではありません。が、「銀河英雄伝説」のヤン提督の言葉にもあるように「歴史を知ろうとすれば、ドンパチの連続であることを思い知らされる」の通り、歴史好きにとって、そのエンジンが悲しいかな戦争であることは認めざるを得ないのです。その歴史的立場から眺めると、「戦艦大和」は軍事上の戦略であると同時に、当時の日本人にとって大事なものを守ろうとした意識から生まれてきた「戦略的象徴」ではないだろうか、と思えるのです。
  
ここからは私の仮説(=歴史好きの妄想)です。よく、大和の最期の出撃が「特攻」であるとか「片道の燃料しかない、死に場所探し」とか言われますけど、私は全くそうは思いません。それはあまりにも情緒が過ぎます。「戦艦大和」は戦況がどうであろうと、堂々たる強力兵器です。私は、戦局打開のため、「勝ち(可能性はともかく)」に出撃したと考えます。坊ノ岬沖海戦で大爆発し、最期を迎えましたが、もし無事に戻る事ができれば、その次には東京湾口に向かったのではないかと考えます。もちろん、それは最後の最後ですけど。そして、神奈川県観音崎沖の浦賀水道に陣取ったのではないでしょうか。嘗ての「第三海保※(洋上の要塞”※正しくは保の下に土が付きます”)」辺りに…。余談ですが、船釣りの好きな人は東京湾の「第一海保・第二海保跡」はご存知でしょう。今ではマダコなどの釣り場になっていますが。「第三海保」は残っていません。で、話を仮説に戻します。
   
当時の日本人にとって大事なものとは何でしょうか? それは「帝都」であると考えます。戦争は互いの兵力の損耗度で勝敗が決し、占領によって勝者が明確となります。降伏しない相手には、この占領が戦争の中で最も難しい。特に海岸線を国境に持つ日本(日本の国境は全て海岸線)に対しては海から上陸しなければなりませんから(空からは物量的に不可能でしょう)。そして、占領軍は市街地に入ると遮蔽物(建物など)全てを対象に神経戦に入ります。敗色濃厚な側の最後の一戦はこの上陸阻止(その後は自爆的市街戦)にあるといってもいいでしょう。その帝都に対して、もし「戦艦大和」が浦賀水道に陣取れば、館山(房総半島の先端)と間口(三浦半島の先端)辺りに砲台を強化し、そこから太平洋に対して40kmの範囲までを死守する事は出来るでしょう。陸に対しても、その位置からですと帝都まで40数kmです。東京湾以外の陸から上がられても、応戦可能でしょう(難しいけど…)。戦艦大和が東京湾に浮かぶ巨大移動海保となります。真偽は別にして、大和を故意に座礁させてその主砲を守備に使うという考えはあったようです。

「帝都」といえば天皇の都ですが、当時の日本人全てがそれを「玉」としていたかどうかは推測しかねます。しかし、少なくとも当時の大日本帝国の雰囲気から言えば、最後の最後に守るべきものは「玉体」と「国体」であったと思えます。現実には、大和は壮絶な最期を遂げ、そのような事にはなりませんでしたが、大和が爆発して沈没した時、日本人もアメリカ人も「戦争の終結」を感じたといいますから、まさに戦略の象徴だったと思います。「戦艦大和」は旧日本帝国にとっての「最後の砦」、「帝都死守の戦略」を最終的なミッションとして生まれたのではないかと思います。もちろん、一歴史好きの仮説(=妄想)ですけど。

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