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歴史・地理 その9「山本五十六 兵を百年養うはただ平和の為である」


本 山本五十六という人物を最初に知ったのは小学校の低学年の頃だったと記憶しています。父親が映画に私を連れて行き、その映画のタイトルが「山本五十六」でした。五十六役は三船敏郎。映画に連れて行ってもらえるのは楽しかったのですが、やはり子供ですから怪獣ものとかアニメの方が…。その映画のタイトルは、どう読むのかさえ覚束ない、「なんじゃ、これ…?(方言) やまもと…、ごじゅうろく…?」。私の父親は戦争に行っています。その父親(いい加減な性格は天下一品)が真面目な顔をして、背筋を伸ばし、映画館の椅子に座っていたのが妙な感じだったのを覚えています。子供の私は戸惑いながら、その映画のタイトルについて聞きました。父親はますます背筋を伸ばして、敬礼でもするかのように答えました。「こりゃあのぉ、山本大元帥じゃ! 山本五十六(いそろく)元帥は神様なんじゃ!(方言)」。子供の私、それを聞いて訳ワカメ…。「いそろく…?」。父親が更に曰く「山本元帥が生きとったら、日本は負けりゃあせんかった…」。ハイ、子供にはもう何が何やら分かりません。とにかく、それが「やまもと いそろく」と読むことと、戦争の映画だという事だけは分かりましたけど…。
   
映画のオープニング・シーン。両岸に満開の桜が咲いている川に、小舟が浮かび、海軍将校の白い制服に身を包んだ三船敏郎がその小舟に乗っています。そして、同乗者との何やら短い会話の後に小舟の上でいきなり逆立ちをします。子供にとって決して面白くは無い映画だったのですが、太平洋戦争の戦闘シーンや五十六が最期を遂げるシーンには父親が感情移入していたようで、戦争時代などを知らない私にとってはフィクションの世界でした。五十六の名前の由来が、生まれた時の父親の歳であるという事はかなり後になって知りました。山本五十六自身はその名前の由来を聞かれると不機嫌になったそうです。旧姓は高野でしたが、旧長岡藩の武士の家を継ぎ、山本姓になったようです。海軍兵学校には(200人中)2番の成績で入校していますから、かなりの秀才だったのでしょう。海軍大学校を卒業してその3年後(大正8年)にアメリカに駐在し、ハーバード大学に留学しています。その時に、アメリカという国の工業生産能力、物量の圧倒的な日本との差を見せつけられたのでしょう。また、この時代に「航空機」に着目し始めた形跡があります。
   
山本五十六はその後、霞ヶ浦航空隊付となり、自身も航空機の操縦を学んでいます。時代は昭和に入り、大戦の時代を迎えます。ロンドン軍縮会議で日本は軍艦の比率を米英に対して不利な条件で条約を調印せざるを得なくなりましたが、この時、山本五十六の頭脳にはその不利に対抗するために、「航空機による一撃」のイメージが湧いていたのでしょう。山本五十六は軍人です。しかしながら、好戦的ではなかった筈です。むしろ、彼我の力量差を十分に知り、三国同盟により米英を敵に回す可能性を懸念し、それに反対します。真偽の程は別にして、当然、軍部内の対立から暗殺さえもありえる、まさに命がけの主張だったでしょう。

結果、山本の意に反して三国同盟は結ばれてしまいまいますが、おそらくこの時から山本五十六はアメリカとの戦争を覚悟し、その戦略を練り始めていたと思います。実際、アメリカとの開戦となり、その火蓋を切る真珠湾攻撃では、戦艦同士ではなく、世界で初めて、航空機による攻撃の有効性を実現させます。ここで、私見ですけど、真珠湾攻撃自体は奇襲攻撃の作戦ですけど、あの時代、アジアの国であれほどの艦隊を持ち、太平洋のハワイまでその艦隊を隠密裏に移動させる操艦能力を持っていた旧日本帝国海軍の力量は、日本海海戦でもそうですけど、その歴史の短さから考えて尋常ではありません。巨大な船を整然と操艦できる能力は今の海上自衛隊にも引き継がれていると思います。
  
歴史的に見て、あれだけの艦隊(攻撃力)が、戦時下かどうかの如何を問わず、見事に敵の軍事拠点まで近づいて見せる作戦行動を遂行する能力は、他に例がないでしょう。ましてやその主力となる攻撃が戦闘機であり、その魚雷と雷撃でほぼ敵の主力艦船を全滅に近い状態にするとは、当時の世界中の軍事関係者は何が起こったのかしばらく理解ができなかったのでは。ドイツの航空機が垂直爆撃で戦艦を沈めていましたが、これは相当にリスクの伴う攻撃であり、日本軍はあの水深の浅い湾内で航空機から魚雷を的確に戦艦に打ち込んでいます。これはもう神業です。当時の帝国陸海軍、特に海軍は「機械力」が物を言いますが、その練兵に置いて世界でもNo.1といえるのではないでしょうか。山本五十六は「自分も軍人だから、やれと言われれば、1年間は太平洋に米英の艦隊がいない状態にできる」と言っています。相当に自国の海軍力に自信があったのでしょう。しかし、それを見事に実現しながら、その後の言葉は続いていません。そこから先は軍人ではなく、政治家の仕事という事なのでしょう。しかし、当時の政治は全くといっていい程、機能していません。特に外交は機能不全状態…。
  
戦争は拡大するばかりで、山本五十六の悲劇はミッドウエーから始まったと考えます。端的にいってしまえば、山本五十六が考え出した作戦で成功を収めた真珠湾攻撃と同じ戦術、アメリカの機動部隊の航空力に壊滅的な敗北を喫し、五十六にはその結果が見えていたように思えます。そして「今回の事で誰か腹を切らねばならないとしたら、それは私だ」と言っています。ガダルカナル島の戦いへ赴く五十六は「あと百日の間に小生の余命は全部すり減らす覚悟」と故郷に手紙を送っている。また、ガダルカナルでの戦況が絶望的になった時、旗艦大和にあった五十六は退官する軍医が「いつ、日本で会えるか」という質問に「来年、五月…」と答えています。そして四月、山本は各部隊の巡視を実施しますが、その陣容は一式陸攻2機に、零戦6機…。結局、アメリカの戦闘機16機に襲撃され、その命を落とします。私は、未だにこれは山本五十六の「自殺」であると思っています。何故かこの山本の巡視計画が長文の電報で打電されています。通常は機密保持と護衛のために、そのような長文の電報は打つ筈がありません。当然、その計画、飛行ルートは敵に筒抜けとなります。巡視の護衛戦闘機ももっとたくさん用意できたはずです。

山本五十六は旧長岡藩の武士の家に生まれています。海軍兵学校では「もっと喋れ!」と言われる性格だったようです。戦地でも兵と輪投げを楽しんだり、負けて水兵にデコピンをされたりと、温厚な人柄だったのでしょう。「敵には困らぬが、味方には困る」という言葉を聞くと、人に取り入ったり、機嫌をとったりするような性格では無かったのでしょう。本編のタイトルである、山本五十六の「兵を百年養うはただ平和の為である」という言葉、当時理解できた人はいたのでしょうか? 今の時代でも理解できる人が何人いるのか…。おそらく、軍人でこう言い切ったのは五十六ただ一人ではないかと思います。ちなみに、あの戦争で命を落とした人たちの数の9割は、山本五十六が死んだ後であるそうです。

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