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社会・政治 その14「今でも解釈次第 大義名分無き南北朝時代」


本 私は歴史好きです。何故かといえば、歴史とは「人の織り成すドラマの記録」であり、それを眺める事は「今の時代を知る事」にも通じるからです。と、小難しく考えなくとも「面白い」からです。で、歴史好きな人は多いと思いますが、そこには必ず「歴史観」なるものがあって、自分の例で言えば、学校で習ったのは官製の「皇国史観」であり、私の中での歴史観は白土三平の「カムイ外伝」や、大御所、故司馬遼太郎の作品群から受けた影響が非常に大きなものとなっています。いわゆる「司馬遼史観」なるものは、多くの人に共有されているのではないでしょうか。その歴史小説の巨人、司馬遼太郎が作品の中で殆ど描かなかったのが、「南北朝時代」「応仁の乱」「昭和の戦争」です。

もちろん、各作品の時代背景として出ては来ます。例えば北条早雲を描いた「箱根の坂」はその話の始まりが「応仁の乱」です。しかし、えっ…と思う程にサラリと書かれている程度です。氏がその理由を何かの随筆で述べていたのですが「どうしてもリアリティーのない、心が冷えてしまうような話になるから」という言葉であったと記憶しています。この言葉を私なりに理解すれば、「解釈次第でどうにでもなるものが多すぎ、大義名分も、人のドラマも無い」という事だと思っています。テーマは「南北朝」ですから、本来なら歴史に関わる事でしょうが、その本質は「社会・政治」に関わるものであると思います。
    
いきなり話が逸れますが、昨今の「憲法、もしくは憲法解釈の議論」にしても、「憲法」を弄んでいるだけの不毛な議論に辟易とします。もちろん、憲法といえども「文字で記述」されているものですから「機械」ではなく、人の解釈、理解によって成り立つものであることは間違いないのですけど、あえて「大義名分」という言葉を使いたくなるほどに、万人が共有できるような「筋の通った」背骨のようなものが不在であるように思えるのです。もし、解釈次第でどうとでもなるものであったとしたら、それは存在しないほどに軽いものとなるでしょう。で、話を元に戻しますが、「応仁の乱」のドタバタぶりは「歴史・地理その11」に書きました。「昭和の戦争」に関しては、各テーマの中で折に触れて書いていますが、特に「昭和の戦争が政治不在の軍事」である事の不毛さについては「科学・テクノロジーその13」で「伊四〇〇型潜水艦」をモチーフとして書きました。憤り的なものは覚えますが、確かに、司馬遼太郎の言う通り、何とも「心が冷えてしまうような」気持ちを味わいます。しかし、氏に倣う訳ではないのですが、その三つ目の「南北朝時代」についてもそのような気分を味わってみようかと思い、考えてみます。
    
この南北朝時代ですが、歴史に興味のない方でも1333年、後醍醐天皇の「建武の新政(中興)」はご存知でしょう。この時代には、楠正成をはじめ、新田義貞、足利尊氏と、魅力的なキャラクターが存在します。そこは魅力的なのですが、その帰結となる「南北朝」となれば、一気にそれまでのキャラクターが冷めてしまいます。やはり、歴史を小説に例えれば、その面白さはやはりラストシーンの趣があっての事でしょう。しかし、このラストシーンは「今の憲法問題」にも通じるようなご都合主義、永遠に平行線の議論・解釈で終わらざるを得ません。実は、戦後まで尾を引く問題であり、諸説(諸解釈)紛々で、故に素人考えの入り込む余地もあるのです。まず、この時代をできるだけ簡単に(実際は猛烈にややこしい)表すと、鎌倉幕府が足利尊氏、新田義貞らによって滅ぼされ、後醍醐天皇が「建武の新政」により天皇による親政(天皇みずからが政治を行う)が始まりますが、それが戦功者である武士たちの不満を募らせます。朝廷の公家たちが権力の中枢に座り、血を流して戦った武士たちが思う通りの恩賞に与かれなかった訳ですから。

結局、足利尊氏が「新政」から離反し、そこからは武士同士の思惑で「応仁の乱」的なドタバタ状態の戦闘になります。が、結局は足利尊氏が新田義貞と楠正成らを打ち破り、三種の神器を後醍醐天皇から接収し、新たな天皇を擁立(これが北朝)して幕府を開き、権力を握ります。後醍醐天皇は京都から奈良の吉野に逃れ、朝廷を開きます(これが南朝、吉野朝廷とも呼びます)。つまりは、同じ時代に「朝廷」が二つ存在するという状態となり、これが14世紀に半世紀以上続いた「南北朝時代」です。南北朝時代の期間には諸説あり、目安として一般に表記されている1336年~1392年としておきます。ちなみにこの期間は「元号」もふたつ存在しています。
   
「南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)」というものがありますが、要は日本の南北朝に於いて、「どちらを正統とするか」の論争です。この「正閏」の「閏」はうるう年の閏と同じで、Wikipedia に面白い説明がありました。「正統ではないが偽物ではない」とか…。さすがの新解さんにも一般的な暦上の事項しか記されていませんでした。この「正統ではないが…」という事が、この南北朝時代の在り方を一見重要な事でありながら「どっちでもいいでしょ」と言いたくなる、まさに「冷えてしまうような」思いに駆られるところなのです。南朝と北朝の争いはそれぞれの背後に就く武士勢力の趨勢で元気が良くなったり衰微したりします。最終的には後醍醐天皇の開いた「南朝(吉野朝廷)」が衰微する訳ですから、「北朝」が正統とはいえます。

しかし、問題は三種の神器。これは足利尊氏が後醍醐天皇と和解する際に「接収」されたものとありますが、本当はどのように「移ったものなのでしょうか」。同等な合意がなければ「簒奪」ともなります。この時点では足利尊氏の方が武力は圧倒的に上でしょ。とても、同等な合意など、無かったと思うのが自然ですよね。「大日本史」を編纂した水戸藩主、徳川光圀は「南朝を正統」としています。幕末の「勤皇」も当然その影響を受けていますから「南朝正統」です。皇統の統一は北朝によって行われ、その時、楠正成らは「朝敵」とされています。しかし、近代に入り、楠正成は後醍醐天皇に最後まで忠誠を尽くしたことで、忠臣とされています。逆に足利尊氏は天皇に背いた逆賊…。
  
この「正閏論」には「南朝正統論」「北朝正統論」「両統対立論」「両統並立論」の立場がある訳ですが、明治期の桂太郎内閣では「南朝正統」が閣議決定されています。幕末から明治への流れの中ではそうなるでしょう。戦後は「並立論」、つまり「南北朝」という時代が事実として歴史に存在したということで落ち着きますけど、ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、その戦後には「熊沢天皇」のように、「我こそは正統な南朝の子孫である」という、自称天皇が現れたりもしています。普通に考えれば「両統並立論」が事実である訳ですが、昭和の時代にまで及ぶ「南北朝時代」の問題は、元をただせば、時代の勢力争いです。誰が悪人でもなく、どこにも大義名分が無いという、日本史上稀有な争いです。単に武士レベルの争いとしてみれば、鎌倉幕府が滅ぼされ、やがて室町幕府の時代へ、という事になるのでしょうが、「皇国史観」の立場に立てば、事はかなりややこしくなります。司馬遼太郎が「昭和の戦争」を書かなかったのも、明治憲法の「(三軍の)統帥権」という十一条を、「統帥権の独立」という解釈で「魔法の杖」を作り、それを振りかざして、国を破綻させた事が「理解不能の謎」で、「自分までおかしくなってしまうと思われたのでしょう」という編集担当者の言葉があります。

明治憲法に「統帥権の独立なる」明文規定はありません。これは勝手な解釈です。しかし、実効性を持っていた…。何故…? 確かに司馬遼太郎は「自分までおかしくなってしまう」と感じられたのでしょう。「解釈」の議論は、永遠に続くリアリティーのない「解釈の再生産」に入って行きます。答えなどありません。というより、答えはいくつでも「作られます」。南北朝時代を描こうとしたら、そうした、世界に引き摺り込まれるという事になるのでしょう。

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