テキトー雑学堂 タイトルバナー

社会・政治 その23「日本社会ブラック化の本質とは」


本 「テキトー雑学」を標榜しながら、コンテンポラリーな社会問題について書くのもナンダカナア…、という気もするのですが、昨今、アチコチから聞こえてくるこの「ブラック化」なるものに対して、雑学頭がそれなりに反応してしまうのです。この「ブラック化」とか「ブラック企業」とかがこの先もスタンダードな用語となるかどうかは分かりませんが、少なくとも特殊な造語でも何でもないので、そのまま「ブラック=悪」ってな単純な図式になっているとしたら、例えば「日本がブラック化」と云えば「日本が悪の帝国になる」のような意味にもなるので、ここはひとつ破綻覚悟でこの「ブラック」というものを考える事に挑んでみようと思います。

そう思ったきっかけは某新聞での「ブラック化する、この国」というオピニオン記事を目にした時からなのですが、タイトルは「市場原理の浸透」となっていました。「市場原理」というなら、それは資本主義の「錦の御旗」であり、それが浸透するというなら、とっくの昔に浸透しきっているじゃないですか。で、記事を読み進むと、いくつも引っ掛かるものがありました。それは、書いてあることが殆ど、今に始まった事ではなく、それこそ大昔からズッと継続してきた事であると思えるのです。例えば「アルバイトの拘束力が年々増している(休むことができず、学業を阻害している)」とか、「取り返しのつかないほど破壊されている教育の現場」、「貧困の連鎖」、「経済界はいつでも辞めさせることのできる労働力を求めた」とかとか…。これは昭和の時代からそうですよ。ただ、昭和は「富と貧」のコントラストが不明確で、戦後から高度成長期までは圧倒的に「貧」が多かった。その後からバブル崩壊までは「富と貧」の中間の層が圧倒的に多く、「一億総中流」などといって、日本のブ厚い中間層が「富と貧」のコントラストをボヤかしてきたと考えます。それがここにきて、一気に格差が広がったのは、まさに「資本主義の本領発揮」、つまり「搾取」の構造が明確になって、「富と貧」のコントラストが明確になってきた、というシンプルな経緯があると考えます。
   
ではその根本となる原因を「仮説」として考えてみます。それは「雇用形態の硬直化」にあるのではないでしょうか? 昭和の高度成長期前、中学卒業生は労働力として「金の卵」ともてはやされ、集団就職なるものが、特に上野の駅を賑わせました。高度成長期に入ると、「学歴」が重みを増してきます。高い学歴の学生を企業が囲い込み始めます。その中で次第に第一次産業(農業、漁業、林業等)や、やがて労働集約的産業(土木関係労働者、工場労働者等)が衰退し始めてきます。しかしまだ、労働組合や農協などの組織が力を持っていた為、何とかやっていけましたが、バブル崩壊以後、日本にはその対応策など無く、相変わらずの「成功体験」である「旧体制」のまま、「課題先送り」という、この国の得意技で「失われた10年」などと云われる時代を過ごし、例の「エンロン・ショック」や、世界に波及する「リーマン・ショック」で、その「見ない事にしておこう」とする「日本式頬被り」を引っぺがされます。その頬被りを取られた前に現れた光景は、10年、いえ、20年は遅れてしまっていた日本の姿です。

具体的に言えば、「新しい企業(社会)の在り方」を何も考えないで、そのままでいた事の「陋習(ろうしゅう:古い悪しき習慣)」、つまり、世界では当たり前の「起業力」を全く持たない社会です。一部の問題意識から、「ベンチャーキャピタル(起業投資)」「ベンチャーインキュベーター(起業支援:インキュベーターとは孵化器の意味)」などの動きも早くからありましたが、日本での成功例をあまり聞きません。結局「企業中心」の、圧倒的に増えた「サラリーマン(民間企業に勤める給与所得者)」という古い雇用図式を後生大事に抱えてきたことが、日本社会を全て硬直化させています。いち早く「労働マーケット」を形成し、流動性の高い「適材適所」のシステムを作ってこなかったツケが、大きな代償を生むことになったと考えます。以上大雑把ですが。
    
問題をあまりにも簡略化しているかもしれませんが、とにかくこの「雇用形態」、というよりもそれによる「人の生き方」までもが硬直化しているのは事実です。こうなってくると何が起きるか? まず「雇用する側(会社、株主)」と「雇用される側(サラリーマン)」に古き良き時代の「労使協調」など無く、「雇用側」の理屈が圧倒的に力を持つようになります。当然です。そっちは、雑駁に言えば「権力」ですから。「権力」がその力をより強くする方に走るのは、本能のようなものです。その権力が欲するのは「利益」です。表現は悪いのですが、「家の柱を削って燃やしてでも」利益を得ようとする方向に走ります。燃やされるのは「雇われている側」です。ここに明確な「富と貧」のコントラストが浮かび上がってきます。では、それを逃れる方法はないのか? あまりにも「サラリーマン」という「給与所得」しか生活を成り立たせる手段を持たないものが多くなりすぎたのです(佐高信が「社畜」なる言葉を使ったのは80年代です)。統計的には8割くらいが給与所得者になると思います(会社形態の区分が難しい)。それだけのものが、強くなった「雇用側の利益」のために働かされれば、そこには「搾取」という、これまた古式ゆかしい図式が鮮明となってきます。

「搾取」は「富」の偏在を生み出し、かつてのサラリーマンに約束されていた「富の分配=中間層」というポジションが萎んできます。そして、「貧」が層として現れてきます。この「貧」は連鎖していき、「教育の機会喪失」「起業への機会喪失」「家庭という社会単位の希薄化」など、不可逆的(逃れられない)と思える社会構造劣化への道を進みます。これが「ブラック化」の本質であると思います。しかし、日本人が急に「悪者」になった訳ではなく、先に述べたように「家の中のものを焼いてでも利益を得よう」とする、競争という概念とは程遠い「理念なき搾取(まあ、搾取に理念など無いか…)」を押しとどめられない社会へと陥っていると考えます。
    
「ブラック化」が象徴するものは、「悪」とかいったものではなく単純明快、「未来が見えない(真っ暗…)」という事でしょう。それが結論では身も蓋も無いので、では、どうすればそうした事を押しとどめる事が出来るのか? 私個人の考えは簡単です。あらゆる者が「個人事業主」となり、会社とはプロジェクト単位で契約し、その中で適正な利益を得る、という図式です。また、農業を始めてもいいじゃないですか。漁業を始めてもいいじゃないですか。起業を目指してもいいじゃないですか。そんな単純にいくかよ、と批判されそうですが、そのモデルがあるのです。1980年代の台湾(中華民国)です。その時代の台湾には大企業と言えるものは殆ど存在しませんでしたが、個人商店の集まり(失礼)のような経済活動で「外貨準備高」世界第3位を誇る国になり得たのです。

「国、会社」への依存率が高い人には、自ら選ぶ未来なんて描けないのは自明の理です。「個人事業主」、別名「一人親方」とも言いますが、なってみませんか。「起業」とか気張らないで、できる事から。屋台を引っ張るところから始めましょうよ。少なくとも「ホワイトな夢」だけは持って。

社会・政治 目次へ



【商品検索】Powered by Amazon

↑「すべて表示」をクリックするとAmazon.co.jpの検索結果一覧に移動します。

■これからギターを始められる方のご参考にでもなれば。
木の音 バナー
「あれこれブログ風」サイト
「不思議」「怖い」「変」を普通に考える。 バナー
「花を楽しむ」サイト
花を飾る バナー


■サイトポリシー ■プロフィール
■お問い合わせ
ページトップへ戻る

Design by Megapx / Template by s-hoshino.com
Copyright(C) Ureagnak All Rights Reserved.