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社会・政治 その29「アイデンティティ 個と社会との信頼関係 E.H.エリクソン」


本 私が「アイデンティティ」なる言葉に出会ったのは、大学に入ってからです。専攻が教育学でしたので、「発達」「心理」という領域には真っ先に出会います。で、この「アイデンティティ」なるものの概念を上手く捉えられなかった記憶があります。日本語では「自己同一性」と訳されていますが、こちらの日本語訳もまたよく分からない…。昔、ユーライヤ・ヒープ(ロックバンド)の曲に「対自核(たいじかく)」という邦題の曲がありましたが、元は「LOOK AT YOURSELF」。それがなぜ「対自核」なる言葉になったのか、捻りすぎだとは思いましたが、曲自体もユーライヤ・ヒープも好きでした。余談ですが、「悪魔と魔法使い (DEMONS AND WIZARDS)」などはレッド・ツェッペリンの「天国への階段」と同じように美しい音で演奏されている曲です。

話が逸れてしまいましたが、その当時は、ユーライヤ・ヒープの「対自核(LOOK AT YOURSELF)」のような概念と「アイデンティティ:自己同一性」が同じようなものなのかと単純に思っていました。となればそれは、何やら哲学的な、「禅」にも通じるような、もしくは吉本伊信の「内観法」のようなものかとも思えました。何事も直観から入って行く私の欠点(思い込みが多い…)かもしれませんが、当時の「土居健郎著 甘えの構造」や「小此木啓吾著 モラトリアム人間の時代」などと合わせ読んで考え、ようやく、何となくそのアイデンティティなる概念が分かり始めました。その当時は「モラトリアム」と「アイデンティティ」とがワンセットで語られることが多かったように思います。私は単純に「自分とは何者であるのか」と云うことを自ら「モラトリアム」という「猶予期間」の中で考え、その答えを出し、社会的存在としての「自己=アイデンティティ」を確立する、というシンプルな考えに至った記憶があります。

しかし、それには自分で考えながら、矛盾かも知れませんが、大いに違和感を感じました。その違和感とは、「このアイデンティティなるものは、日本人の中で特に意識されるべきものなのか」というものです。日本のように「ムラ社会の複合体」として、個人の「帰属」が比較的明確で均質な社会の中で、そのようなものが特に問題となり得るのか、とその当時は感じました。エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」やアブラハム・H. マスロー(マズローとも記される)の「完全なる人間 魂の目指すもの」を読んで、おそらくこれは「キリスト教社会」の中に在る心理学上の問題では、との考えに至り、つまり日本人の精神性の根幹には無い「原罪」に対するものではないのか、という理解です。日本人が持つ精神性の根幹にあるのは(毎度の主張ですが)「無常観」であり、最初から「常に変わりゆく」ものである自己に対しての云々などという問題は起きないのでは、ということです。自分自身、アイデンティティなる大それたもので悩んだ記憶はありません。「そりゃ、お前が鈍感だからだよ」って言われれば、「ハイ、鈍感です。バカと言われると怒るけど…」って答えるでしょうね。

ところがです、オヤジの本性を表して今の社会を見ると、自分(若い頃)の生きた時代とかなり違うことに思い至らされます。何が違うと感じるのか? 至極単純に言えば「自分探し」なんて言葉に出会ってからです。ハッキリ言って「何、それ?」、です。その昔、三田誠広の「僕って何」って小説もありましたが、別に「僕探し」が社会的な現象になるような事もなかったですね。この「自分探し」というのがアイデンティティに向かう行為なのでしょうか? であれば、日本の社会も随分とその屋台骨が劣化しているのかもしれません。「アイデンティティ」と呼ぼうが「自分探し」と呼ぼうが、それをチョー簡単に言ってしまえば、「社会と個との関係」「社会の中で成り立つ個」なるものを明確にしたいという事でしょう。どんな「個」も社会無くしては成立しないし、その時の社会がどうあれ「個」はその中でしか成立しません。例え、山の中に一人籠っていたとしても。

アイデンティティとは精神分析家のE.H.エリクソン(1902~1994)がその概念を提唱したものですが、彼は発達心理学者でもあり、教育学に携わっていればまず素通りすることはありません。そもそもがアイデンティティはその定義が極めて難しい概念です(エリクソン自身も迷っていたようです)。ただ、彼の「ライフサイクル論」にそれを捉えるキーワードがいくつかあります。これは「乳児期」から「青年期」「成熟期」と、人間の成長を区分して、それぞれの段階で形成すべき「関係性」を分析しています。興味がおありの方はWEBでも調べられますからどうぞ(無責任?)。私が一番注目するのは彼が提唱する「基本的信頼」というものです。簡単に言えば、「乳児期に、自己が愛されているという経験が、社会との基本的な信頼関係を生む」ということです。つまり、他者を「信頼」する「信用」するという心理が確立するということです。

で、その「愛される」「愛してくれる」対象は母親にその役割を見出していますが、私は必ずしも母親でなければならないとは思いません。でもまあ、母親が一番近くにいる存在で、母性から我が子を愛するというのは一番自然な形でしょう。この時期を「いびつ」に過ごしてしまえば、社会に対する「信頼・信用」が形成されず、時には「反社会的」な心理をその中に宿してしまう(社会性を健全に形成しきれない)可能性があります。これはアメリカの社会学で「子供の頃の親とのスキンシップの不足が青少年の犯罪を生み出す」という調査結果が証明しているように思います(実際のデータは手元にありませんが)。アイデンティティに悩む社会や、「自分探し」をしなければいけない社会というのは、その最小単位である「家族」という社会から壊れ始めているのでは? こうした問題は複雑すぎてなかなか一側面からだけでは何とも言えないことは百も承知ですが、少なくとも、「社会的動物」である人間が社会との関係性を築きにくい時代がきているのかな、とは感じます。それは何でしょうか?

で終わると居心地が悪いので、個人的な仮説ではありますが、問題は「愛情」の方で、人間のその力が弱っているのではないか、と考えます。例えば、子供を抱いてスマホを見ている母親、子供の運動会などではムービーカメラが並び、どの親も「自分の目」で子どもを見ていない…。アベックがレストランで食事をしながら、お互いスマホばかりを見ている…。少なくとも私の世代(若い頃)にそのようなものは無く、"Face to Face"が当然でした。対象を直接見てない眼に「肉体を持つ人間」への愛情というものが映るのでしょうか? そこに愛情は育つのでしょうか? 個人的に甚だ疑問です。人間が人間を見るのが「社会」であると思うのですが…。

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