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社会・政治 その30「依存という病理 良識も判断力も育たぬ苗床」


本 少々剣呑なテーマを掲げてしまいましたが、表現はさて置き、これはシンプルな問題提起で、確かマクルーハンの「メディア論」に含まれていた概念だと記憶していますが(今は本が手元にありません)、メディアと個人との「一対一」「一対多」の関係から考えてみたいと思っていることがあります。簡単に言ってしまえば、テレビでもWEBでも、そこから発信されている情報は「多数」に向けて発信されていますが、それを見る者は「一人」です。ですから本来その情報は「一対多」であるわけですが、時としてそれを「一対一」の関係であるという錯覚(というか勘違い)を起こしてしまい、「メディアとのナルシスティック(自己愛)な関係」に往々にして陥ってしまうと云うことです。単純にいえば「あなたと」「あなただけに」といったメッセージを、本当に「自分」に対して向けられた「一対一」のものであると勘違いしてしまうことです。つまりはナルシスのように「酔ってしまう」だけ。

ダイレクトメールに、直筆で客の名前を書いて挨拶状を入れて、「これはあなたに対してのもの」とお客に思わせる手法は昔からあります。実際にはそうではない事、分かりますよね。多くの人が同様のものを受け取っているわけです。この「一対多」を「一対一」と思わせてしまう手法は他にもありますが、「自分はそんなもの、ちゃんと判別できる」と思われている方も意外と簡単に起してしまう勘違いというものはけっこうあります。例えばあるサラリーマンの方がいて、「自分は一人の納税者であり、一国民としての権利を享受する資格がある」と思われたとします。後半はともかく「自分は一人の納税者であり」というのが、実はそうでないとしたらどうします? できるだけ簡単に説明すれば、サラリーマンは全ての国民と同様に「納税義務者」ですが、法律上の定義(確か国税通則法…)では「納税者」ではないのです。納税者は雇用主、つまり会社です。そういうことになっているのです。ご存知でした? 年末調整まで会社任せとなります。国税への不服審判所に申し立てる権利も無いのです。「自分が税金を払っている」と思っていたら、一山いくらの源泉徴収対象で終わり。給与明細に記載されているとはいえ、税痛感は薄いですね。「俺はこれだけ払っている」といくら思っても、徴収は「一」対象ではなく「多」対象となります。

「自分は国に対して、会社に対して」という意識を個人としてはお持ちだと思います。その意識は「一対一」の気概を持つものであるでしょう。一個人として国なり組織に対峙しているという。しかし、それを明確な "independent(独立)" として成立させるには「自由」であることが条件となります。実際の組織内で自由であることは至難の業です。コマンドラインは常に「上から下へ」。昨今の企業不祥事をみても、それはニュルンベルグ裁判(東京裁判も同じか…)でも見られるように「上の指示に従っただけ」という形式的な責任でしかなく、自由な精神から生まれる行動とは程遠いでしょう。

何が言いたいのかといえば、国民としても「納税者」ではなく、組織内では「自由人」として生きていくことができない環境の中で「個」であることは誠に難しく、一人の「自分」であるとしても、景色としては諸々その他大勢の「多」の中にいるだけの事であるということです。多少牽強付会気味ですが冒頭に述べた、真の「一対一」はそこに成立せず、「一対多」、つまりは「希薄な個」として存在しているに過ぎない事が、往々にして気付かれないままになっている「ナルシスティック」な状態というわけです。直接の納税者でもなく、「所属」を失えば社会的な所在まで失いかねない状態に、気が付かないうちに慣らされているというのが大半のサラリーマン(という就業形態)的姿と言わざるを得ません。

その状態を一言でいえば「依存」です。国に依存し、組織に依存する。「依存」には特段のリスクも無いでしょう。しかし、そこには「病理」と呼んでもよいメカニズムがあり、結果としての「症状」も出てきます。その環境を「苗床」とすれば、どのような「良識」と「判断力」が育つのでしょうか? 反論承知で言えば、育つのは無理です。なぜなら、「必要」という養分が無いからです。「ナルシスティック」といいましたが、具体的に言えば「自分は大丈夫」という気分です。ですが、その根拠を見つけるのはなかなか難しいでしょ。聞いた話ですが、アメリカではレイオフがありますが、実際に人を解雇するとなると、それを告げる者は「身の危険」を感じるそうで、退職(馘首)を言い渡す際の対応マニュアルがあるそうです。それに比べると、リストラという馘首が日本でも定着しましたが、アメリカほど揉めることはないそうです。おそらく「自分は大丈夫」と思っていたものがそれを告げられた時のショックが大きく、抵抗する力を失うからではないでしょうか。「依存」の証です。

今の日本には「正社員」「非正規社員」と呼ばれる会社員がいますが、これがどれほどの差別用語であるか、マスコミさえ気が付きません。で、その比率が2017年には逆転すると予測されていますが、2014~2015年で既にほぼ五分五分の状態になっています。組織自体も「依存」をこれ以上背負えきれなくなっているのでしょう。であれば国もそうなるのでしょうか? となれば「正国民」と「非正規国民」とでもマスコミは呼ぶのでしょうか。ハイ、もともと「正」「非正規」なんて呼び方がどれほどにおかしなものであるかが分かりますでしょ。昔(戦前)、「非国民」なんて言葉がこの国にはありましたね。他の国にも(現在も)あるようです。いっそのことみんな「非正規国民」になりませんか。納得がいかなければ税金なんて払わない。もちろん、全員が「一個人事業者」としてビジネスに参加し、納得がいかない仕事はしない。国家としての共通の最後のよりどころは「憲法」。そのための必要十分条件は「良識」と「判断力」。…とまあ、それが一番難しいのですが。

最後は余談になりますが、今の日本のサラリーマンの「源泉徴収」とやらは、戦前の「戦費調達」のためのシステム。しかもお手本はナチスドイツで、日本(同盟国)はそれを真似したわけです。ですから、彼の国はあのようになり、この国はこのようになったのです。しかし、戦争のための「源泉徴収」システムを戦後も容認したのは、戦勝国のアメリカから占領日本へやってきた税制使節団のシャウプ氏。まあ、同時に納税者意識を喚起することも求め、年末調整の廃止も勧告したようですが。無理な相談ですよ。結局、コアな所は「納税者意識」ということになるのでしょうけど、あのケネディの演説「国があなたのために何をするかではなく、あなたが国のために何をするか」との言葉を改めて噛みしめましょう。今の日本のシステムでは、「良識」と「判断力」がたおやかに健やかに育つ苗床は痩せ、「依存」という「薄ぼんやりとした個」しか生まれないのでは。歴史を見ると、そこで戦争が起きるか、革命なる暴走が起きて、見たくもない独裁が起こります。そして超「依存」へと進化する…。

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