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社会・政治 その33「人は自然に歳を取って、生まれて初めてその歳になる 老いとは…」


本 人は誰でも歳を取る。それは誠に自然の理に適った事です。まあ、泣こうが喚こうが時間は滔々と流れてその中で歳を取っていきます。で、人の一生を季節と色になぞらえた「青春、朱夏、白秋、玄冬」と言う言葉がありますが、人はそれぞれの年代の中で、「生まれて初めてのその歳」を過ごします。「青春」とはご存知、「これが青春だ!(古…)」なんて、千葉県で知事(2017年現在)をやっているオッサンが竹刀を振り回していた元気なころで、知力はさて置き、とにかく体力は有り余っています。「朱夏」とは「赤い夏」であり、人生で知力・行動力ともに最も充実する年代でしょうか。30代初め~40代後半くらいかな。そして、経験を積み、分別をわきまえた「白秋」に向かう、と。これは50代初め~60代中半くらいでしょうか。さて、「玄冬」ですが、その「玄」は「黒」であるそうですが、真っ黒という事でもなく、私のイメージとしては「深く重い地底」の色です。単純に言えば「こげ茶色」なのでしょうけど、それでは軽すぎます。「玄」とは老荘思想に由来するものと一般に言われているようですけど、そうなれば「道(たお、Tao)」であり、「天」の色でしょうか…。赤と黄を帯びた黒、なんてややこしい表現もあるようですが。

「玄」が付く言葉には奥深いものがあります。「玄関」は置いといて、「玄妙」「幽玄」「玄武」等々。「玄武」はカメの尻尾が蛇という想像上の生き物として現わされますが、これは「北を守護する神獣」であり、つまりは「神」です。この「玄」と「冬」という「暗く厳しい季節」の組み合わせが、「白秋」を過ぎた年代とすれば、60代後半辺りでしょうか。しかし、今の60代後半なんては、(男の場合)会社を定年で去ってはいますが、スポーツカーをスッ飛ばしたり、ボルサリーノなんて被っちゃったり、カツラを被っちゃったり、バンドなんか始めてロックンロールしたり、海外旅行で「恥のかき捨て」をやったりと、元気元気。ってことは、今や「玄冬」は70代くらいからでしょうか? 人の年齢も昔から比べれば、幸若舞(こうわかまい)の一節に詠われているように「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり…」ではなく、今や「人間八十年(以上)」の時代です。後半がずいぶんと長くなりました。

では、今の「玄冬」、つまり「老境」ということで「老人」なるものの定義ですけど、日本老年学会・日本老年医学会が2017年の1月5日に、「高齢者=老人」として定義される年齢の引き上げを提案しました。その内容は、現在は65歳以上が「高齢者」とされていますが、それを75歳以上とし、65歳~74歳は「准高齢者」とするというものです。なんか、大きなお世話のような気がしますね。年齢なんて、どの生物でも「個体差」があるもので、十把一絡げに「これが老人だ」なんて言われてもねえ…。まあ、これは行政上の問題なんでしょうが、世の「老人予備軍」は「年金が逃げて行く」ことを感じて、穏やかな気分ではいられないのでは。

しかし、「老人」なんて括り、まあ、表現としては致し方ないとしても、当の本人がどう感じるかが一番大事でしょうね。70歳くらいでヨボッとくる人もいれば、70歳なんて「人生も中半を過ぎて」とかで、「これからこれから」と、毎日を楽しもうとする方もいます。人それぞれとはこのこと。とはいえ、人は必ず歳を取り、「老い」ます。誠に自然な事。しかも、そのすべてが(当たり前のことですが)「生まれて初めて」の事です。60歳を二度も三度も経験はできません。その「還暦」なるものを若い時、「朱夏」のころに考えても、よく分かるわけがないし、まあ、周りから煽られて「老後の備え」なるものにナンチャッテで備えてみたところで、現実感なんて全くないでしょうね。その歳に、生まれて初めてなった時にしか分からないのですよ。その時の自分がどうなのかなんて。

予定調和的な想像しかありませんよね。もしくは、周りの老人を見てそれを「参考」にして考えてみるしか。いずれにしても、本当の意味で分かる訳がありません。今は今ですから。先のことは先の事。そういうと「無責任・無計画」に生きることを肯定しているように聞こえるかもしれませんが、言いたいのは「分かる訳ないでしょ」という事実です。極論すれば、そこまで「生きているのか」も分かりません。それなのに、「年を取ったら」「老後が心配」なんて話題が、それこそ毎日のように新聞や雑誌、WEB上の記事で目につきます。「下流老人」なんて、それで表現したいことが「社会的」な問題であることは理解できますが、言葉単体で見るとどうにも差別的な表現にしか思えないような言葉までが喧伝されています。特にCATVの広告ですが、アンチエイジング(歳に逆らう)の広告が目白押し。化粧品にサプリメントに、食品などなど。殆どが「怪しい」内容…。

歳取るのって、そんなに抵抗しなきゃいけないほど、悪いこと? 情けないことなのですか? と、オヤジはそれなりに歳を取り、自分の親と家人の親の介護でいささか疲弊した脳みそで考えます。結論。「しょうがねえだろ」。どうあがいたって歳は取るんだし、「そん時のことはなってみなきゃ分かんねえよ」。老後の生活のために「数千万円は必要」とか「一億は必要」とか、備えが無ければ「総下流老人化」とか。そんなのが可能な連中がどれくらいいるのかね。しかも、まだ老境ではないオヤジにしても、自分の生活がけっこう歳とともに変わっていくのは感じていますよ。つまり、行動力・運動力は衰えますが、考える力(痴呆症にならなければ…)には何の変化もまだない、ってことです。であれば、生活の在り方が変わったからって、「苦しくなる、面白くなくなる」なんてことは、今のところありません。であれば、身の丈に合った生き方で、夫婦揃って「明日はこうしよう」の連続で生きて行けばよろしい、というさほど重くもない覚悟程度で落ちついています。仮に、一人であっても。ってか、それ以外に何かあります?

わざわざ自分から「玄冬」を「暗く厳しい季節」にしなくてもいいでしょう。それが「もし本当につらいもの」なら、避けようもないし、ほぼ平等にやって来ます。その時に何か嘆いたとしても、それは「生まれて初めての事」だから、今は分かりません。「老後」に備えるのは、「地震」や「台風」なんかの天災に備えるのとはわけが違うでしょう。「地震・台風」などの自然災害は確率でやって来ますが、「老後」は黙っていても必ずやって来ます。心配しなくてもちゃんと歳を取って「老い」ます。別に、だから「刹那的」に生きろ、って事ではなく、「確実に来るけど、生まれて初めての事なので今は分からない」で、いいじゃないですか。「備える」人は備えればいいですけど、自然体で行くのが、まさに一番「自然」でいいと思います。人間はあらゆる「悲劇」の種を持っている存在ですから、「考える」って言ってもキリがありません。

とにかく、「人はいずれ死ぬ」。それは確実。それまでの時間を「悲観する」論調が多すぎるのはおかしい。と、考えるのです。あの、私は決して「開き直っている」訳でも「不貞腐れている」訳でもありません。楽観論者でもありません。かといって悲観論者でもありません。これまでを振り返っても(昔のことを考えるのは好みませんが)、自分の意思決定でそれなりに「必然」と「僥倖」で成り立ってきていますから、これからもその時々に考えはするし、意思決定もしますが、「見えない、分からない」不安で動くことはやるつもりはありません。大丈夫ですよ。もし「歳を取ることが悲劇的で辛いもの」って事なら、この世界が端からそうなっているという事ですから。そんな事はないでしょ。釈迦の出家のきっかけになった「生老病死」は、トドのつまり、「受け入れる」こと意外に術はないのです。宗教はそれを教えているだけで、「具体的で利益享受となる救い」なんて、約束していません。

長々と書きましたが、言ってることは単純なんです。「なにもわざわざ『玄冬』を『暗い冬』にしなくてもいいでしょ。『玄冬』とは、いずれ行き着ける、人の精神の高みです(の筈)」。それが分かるのは、その歳になって、生まれて初めて感じ、そして某かの事が分かるでしょうね。

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