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社会・政治 その34「今更のことでもなし ポスト・トゥルース フェイク・ニュース」


本 「ポスト・トゥルース(脱真実:Post-truth)」、「フェイクニュース(虚偽報道:Fake News)」なる言葉があちこちで目につく昨今です。この「ポスト・トゥルース」なる言葉を、オックスフォードの英語辞典が2016年を代表する言葉として選んだそうです。同辞典は世界最大の英語辞典であるとされていますが、それに関しての個人的な感想は「何を今更…」ってなところです。時事的な話題としての言葉なら、まあ、取り上げるのも分からないでもないのですが、世界最大の英語辞典ということは斯界の「権威」でもあるわけで、そこが殊更に取り上げるのも何か妙な感じがします。そもそもが「トゥルース(Truth)」とやら、つまり「真実」ですが、これは遥か昔から優れて核心的な「哲学的テーマ」として扱われ、それを「普遍」と言ってもよいかと考えるのですが、それに「脱」を付けようが、特段に今更取り上げるような言葉でもないと思うのは私だけ? 流行語のようなものかな…。「脱真実」とやらは「真実や事実よりも個人の感情や信念が重視される」って事みたいですけど、そんなもの昔からあります。

本棚を探ってみているのですが、何度かの引っ越しでどの本がどこにあるかもう全然分からなくなってきました。探しているのはペスタロッチ(1746年~1827年)の「隠者の夕暮れ」です。確か、この冒頭にこのようなことが書かれていたと記憶しています。「海の底の色が青であろうが赤であろうが、それが一体どうしたというのだ」。これは一見「反知性主義」の言葉のように感じますが、ペスタロッチの本領というか、彼が教育思想家として尊敬を集めている天才教育家としての所以がここにあるのです。つまり、できるだけ平易に言えば、「絶対的な真実がそこに君臨しているのではなく、それが一体何者であるかを見極めることができなければ、教育など成立しない」ということです。まだややこしいですか? ではもっと簡単に。彼は「玉座の上にあっても、木の葉の屋根の陰に住もうとも同じ人間」ということを理念として、人間を理解しようとするところに「教育」が成り立つとしています。通り一遍に「青か赤」「白か黒」なんて二元的な区分でことを理解しようとせず、もっと「深いところ」でその対象と関わらなければならないと言っているのです。これも言ってみれば「脱真実」でしょう。「真実」と「本質」は別物です。

ペスタロッチを引き合いに出すまでもなく、「教育」という近代的な社会が持とうとした機能が、それまでの単なる「技術的なもの」ではなく、「個々の人間の深い奥底にある」ものを探求しなければ、そこに「人間性」など見い出せないということを前提にしているのは、まさにそれが近代的な「知性」の産物だからです。例えば「人権」などを考えれば、分かりやすいでしょう。ですから、この段階で、厳格な「真実」など、かなり「相対的なもの」にならざるを得なくなっています。なんか、だんだん説明の深みにハマっているような気がし始めましたけど、「知性」が「真実なるものへの服従」ではなく「対象に対する深い関わり」であるとすれば、「海の底の色が赤であろうと青であろうと」それは「真実探求」の対象として意味を見出せることではないということです。なんせ、人間の奥底にあるものは、海の底にあるものとはわけが違いますから。「あれかこれか」なんてものじゃなくて、深い理解力と洞察力を必要とします。

いつも通り話が冗長になってしまいましたが、だから「ポスト・トゥルース(脱真実:Post-truth)」なんて、そもそもが「真実」自体、とっくの昔に近代精神の中で「流動化」している訳ですから、それを今更「時代のキーワード」のように言われても、「ああ、そう…」ってな気分です。それに加えて「フェイクニュース(虚偽報道:Fake News)」です。これ、「捏造報道」って言った方が「意図的」ってニュアンスを含むから分かりやすい。これも、今更って感じです。某大国の某大統領が連発したので「時の言葉」みたいになったのでしょうが、要は「嘘」ってやつです。こんなもの、はるか昔からあちこちにゴロゴロしていますよ。それに対しての「ファクト・チェック(事実の確認)」が重要だなんて、近代の知性が時代に逆行して「退化」しているような気さえします。こんなの、日本の某朝日新聞を例にとっても、新聞を売るために「反戦、勝てる戦争ではない」から「開戦、必ず勝てる」に論調をコロッと変えた戦前の事例や、お向かいの国を「地上の楽園」なんて言ったり、もうどうでもいい言葉ですけど「慰安」がナンタラなんて、もうテンコ盛りでゲップがでます。まあ、「大本営発表」ってなもんで一括りできますね。「ファクト・チェック」なんて、その時の都合でしょっちゅう機能不全を起こしてしまうだけのものです。

こうした「ポスト・トゥルース」や「フェイクニュース」が成り立つのは、その「送り手、発信者」よりも、その「受け手、受信者」の問題ですよ。特に昨今、こうした事が問題となるのは、そのチャネルが多様化、複雑化しているからです。インターネットのことですけど。要するに「情報」を丸呑みしてしまうという事。これがどういうことかと言えば、「疑う」という、最も近代的な精神である知性のコアを失ってきているということでしょう。「事実(Fact)」とされることに対して、「何が根拠で…」「どうしてそう言い切れる…」ってな疑問を持たないという「思考の停止」を起こしてしまうことに問題があると思います。

フランシス・ベーコン(Francis Bacon:1561年~1626年)が「知識は力なり(=知識は考える力の源)」として、あらゆる「イドラ:Idola」、つまり人間の先入的謬見(偏見、先入観、誤り、思い込み、陋習など)を「拷問にかけてでもそこから真実(この真実は、正しい考えと訳すべきでしょう)を導き出す」とした近代精神誕生の嚆矢から、大いに後退し始めているのが現代という悲しいことが起こっているのでしょうか。さらにマーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan:1911年~ 1980年)」のメディア論からその「機能拡張」と「メディアとのナルシスティックな関係」なる考えを借りれば、人はインターネットという「個人で受発信できる初めてのメディア(=機能拡張)」を手に入れ、その情報チャネルは複雑化・多元化し、その中で得る情報に対して極めてナルシスティックな関係を持ち始めたということなのでしょう。「メディアとのナルシスティックな関係」というのは、送り手側は「一対多」として発信する情報を、受け手側は「一対一」の情報として、それを「私だけの」特別なものと思い込んでしまうということです。本当は「一対多」で、不特定多数に送られたものなのに。

いずれにしても「疑う能力を低下させ」「思考が停止気味」の現代人が向かうところは「統制」でしょう。これは近代に何度も味わっていますよ。「独裁」は望まれて生まれるのです。まあ、故に「何を今更」と言いたい「ポスト・トゥルース」や「フェイクニュース」が時代を現すような言葉として飛び回っているのでしょう。それを一笑に付する「正気」を保っていたいものです。で、それとは別に、「オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実: Alternative facts)」ってやつには大笑いしました。これまた珍しくもないことで、むしろ「ポスト・トゥルース」や「フェイクニュース」などよりも身近な言葉でしょう。私はこれを「言い張る」と訳します。昔、某食品メーカーの広告で、キスをしている浮気の現場を嫁さんに目撃された亭主と浮気相手の女が、「ありがとうございました。人工呼吸のおかげで助かりました」と言い残してそそくさとその場を立ち去るTVCMがありましたけど、これには大笑いしました(どこかで同じようなことを書いたような記憶が…)。浮気がばれた時の奥の手! 「言い張る!」。

一つのことを考える時にアチコチヘ頭が飛んでしまうのは「雑学」の醍醐味で、何が言いたかったかと言えば、「トゥルース」や「フェイク」を見極めるのは難しいですけど、「丸呑み」だけはやめましょう、ということです。我々は「嘘」の海を漂っているクラゲみたいなもので、その底の色がどうかなんてのが重要じゃなくて、「波に漂っていれば大丈夫」ってことに「何で…?」て、一度は考えてみましょう、ということですね。ハイ、大きなお世話のお話でした。

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