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社会・政治 その37「司馬遼太郎の警鐘 今こそ考える時 土地と日本人」


本 過日、某朝日新聞のコラムで次のような言葉を目にしました。「自分が普遍的なもののなかにいるという意識がないのがいまの状況だと思います」。私、オヤジになってから「普遍性」なる言葉を見ると、どうにも安っぽい哲学遊びのような気がしてしまうのです。若い頃はそれなりに、そうしたものを含んだ言葉と格闘する気概はあったのですが、頭のメモリにゴミが溜まりすぎたのですかね。そもそもが「無常」という中に居心地の良さを見つけた者としては、「普遍」なる言葉が(方丈記風に言えば)川の上をただただ流されて行くが如きなのです。で、元の水にはあらず、戻ることもなし、と。

まあ、そうした個人的なことは置いといて、哲学なるものが求めるというか、現実の中に叩き出すのは、「時代」というものと関係なく成立はしないと思います。単純化して言えば、哲学的な「真」とは、その時代の空気を固体に押し固めるが如く凝縮した中に現れると考えます。つまり、「普遍性」の中に「真」を求めようとすれば、「時代」なる猛烈な流れに立ち向かう、もしくは逆流させるほどの力が必要になってしまうのでは。まあ、「無常」自体を、「普遍的に在るもの」と位置付ければ、それはそれでありかもですが、どうにも「部屋に入るには鍵がいる 鍵はどこ 部屋の中」といったややこしい事になりそうです。と、また個人的な考えに寄ってしまったような…。

で、冒頭の言葉の「普遍的」なるものに目が留まった訳なのですが、これは司馬遼太郎の著書「土地と日本人」の対談の中である法制史家が言った言葉のようです。司馬遼太郎の作品は殆ど読みましたが、エッセイとか対談集はあまり読んでいません。が、この「土地と日本人」は読んだ記憶があります。どうもこの対談の中で出てきている「普遍性」とは、文脈の流れの中で見て取れば、どうも「優れて哲学的なこと」として語られたものではなく、「気付くべき当たり前の事」といった意味に近いように思えます。なるほど、それであれば、この「土地と日本人」という対談集の中で語られるべきものとして「普遍性」というのは極めて明確な意味を表すものであると得心がいきます(要はかつて読んだ「土地と日本人」の内容を殆ど忘れているってことです)。

どこかで書いた記憶がありますが、司馬遼太郎自身、「自分の問題意識はどうも根源的過ぎて、誰にも相手にされない事が多い」とかいった事を述べていたと記憶しています。この「土地と日本人」はあのバブルの時代に突入する1980年位に書かれた本です。まさに、戦後の日本人が持つ「土地への執着」という「宿痾(しゅくあ:治らない病気)」が、ドンチャン騒ぎで人を踊りまくらせたバブルという時代の入り口で、すでにそのアホらしさを看破していた司馬遼太郎の慧眼には恐れ入るしかありませんが、多くの日本人はそれに実は気が付いていたとは思います。「何か、おかしい…」って。東京の某銀座に立っている時、つくづくその時代の異様さに虚脱感さえ覚えました。自分が立っている靴底の裏が踏みしめている土地の方が、自分よりも遥かに金になることに。何もしていないのに、です。これをまさに、「狂」の字で表す以外にどのような日本語を使えば良いのでしょうか。ハイ、アッサリと、ド派手にバブルは破裂しました。多くの愚行とともに。そのバブルを生み出したのは、「土地本位制」ともいえる、価値の狂乱です。

ちなみにこの「土地と日本人」はさほどの話題にもならず、どうにも多くの人に「司馬遼太郎は共産主義者か」なんて、なんとも金太郎飴のような反応をされたようですけど、それは司馬の「日本は土地を公有にしなきゃどうしようもないと思う」という言葉が原因だと思います。まあ、確かに安直で貧弱な「私有財産の制限」なんて誤解を生みやすい言葉であるとは思いますが、ここで司馬遼太郎が言っている「公有」とは「共有」の意であると思います。つまり、そこにあるのは「土地の使用権」は認めるが「土地の所有権を個人に独占はさせない」という考えです。土地に所有の意味はなく、使用してこその価値のみ。大雑把な例ですが、戦国大名が領土を命懸けで勝ち取るといってもそれは「租税徴収権」の様なもので、土地そのものまでの「占有」という概念は無かったと考えます。日本には西洋と違って「農奴」というものは存在しませんし、律令制以後の「土地の私有」という概念はあったとしてもそれは「生きるためのもの」であり、「村」という単位で「コミュニティー」という形の「協業」「土地共有」を明確にしたうえで、それぞれが「自分に当てがわれた(私の)土地の使用」を行ったのだと考えるべきでは。故に、戦国大名でさえ、それを「奪取する」意図など毛頭なく、そこから生まれる「利益」を他国や賊から守ってやる替わりに、その一部を租税として徴収するというシステムが戦国の「領主」でしょう。

そこには「コミュニティー」なるものが存在したのです。それを「村」と呼ぶか「邑」と呼ぶか「国」と呼ぶかはそれぞれでしょうけど、その「コミュニティー」の一員として、明確な責任を持つ当事者としての「私」がその構成員として成立していた訳で、冒頭の「普遍的」とは、まさにその在り方としての姿を指摘した文脈の言葉だと思います。

司馬遼太郎の言葉は残念ながら「的中」してしまったようです。気が付けば、マイホームはドン殻の空き家と化して、いずれは我が国の三分の一が空き家と化し、所有権は曖昧となり、ついでに墓石も粗大ゴミと化します。しかし、「土地」は消えも無くなりもしません(斜面に盛り土で作った土地は大雨で流れると、どうなるのかね…)。まさに、天下の土地は誰のものでもなく泰然とした姿に戻っていくのです。この大間違いの根本は戦後の「持ち家」促進の政策にあると思います。経済成長のエンジンとして消費の中心となる中間層を強化しようとしたのでしょうけど、結果は、「職住分離」「核家族、さらなる家族の分解」「地域社会の喪失」「拡大する棄民」等々であると思います。コアになるべき「コミュニティー」を失って、「私」というものが成立するのでしょうか。生活、そして社会というものが単に「私=個人」の集合として、「私の権利」を振りかざしただけで成り立たないという事は明らかでしょう。その明らかな愚行が延々と続いているように思えます。

話が少々ダッチロール気味ですが、ふと、宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」の中でシータが母親から受け継いだ言葉を思い出しました。「大地を離れては生きていけない」。確か、そんな一節だったと思います。司馬遼太郎の「土地と日本人」の中での言葉は、われわれが「私、個人、人」として成立するためのコミュニティーが、「土地」という狂乱の上で破壊され続けていることに対しての、実に明確で鮮やかな警鐘であったと思います。

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