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社会・政治 その40「シジフォス的不条理 この世はもともと残酷で不合理」


本 「不条理」などというテーマは、思想だろうが歴史だろうが、一番親和性のありそうな文学であろうが、どのジャンルであっても捉えられるものであると思います。しかし、ここで書きたいのは観念的ではなく、現実に「世の中に横たわっている」「手触り感」のある生々しい不条理です。ですから、社会という、このジャンルで書いてみます。かなり風呂敷の広いテーマですけど、誰もが身近に感じることではないでしょうか。どこからでも切り込めるテーマであり、どこから切り込んでよいのやらと固まってしまいそうなテーマですけど、誰もがこの「不条理」をその体の中に飲み込んでいるのだと思います。「貧困」、「別離」、「剥奪」、「殺人」…。全てが、「不条理」であり、どこにでも現れてくる日常です。

余談ながら、漫画の「クレヨンしんちゃん」で、その中で主人公のしんちゃんが「シジフォス的不条理の肯定・自己同一化だゾ」なんて意味深な言葉を吐いているそうです。この漫画はあまり読んだことはないのですけど、仕事でこのキャラクターの映画を使ったときにいくつか作品を見てみましたが、意外と真面目な側面を持った漫画であると感じました。それまではただのナンセンス・ギャグマンガだと思っていましたけど。しかしながら、先の一言は、まあ、作者が子供という存在とのイメージギャップを狙ったような言葉であると思います。深読みするなら、作者自身のケースヒストリー(個人の生い立ち:Case history)まで立ち入らなければならないでしょう。が、あえて無理矢理に深読みするとすれば「おれたちなんて、テキトーなもんだゾ」ってな事でしょうか。

話を元に戻します。テーマにある「シジフォス」とは「シシュポス、シシュフォス」とも記され、その不条理は「シーシュポスの岩」と称され、簡単に言えば「徒労」の意味だそうです。故にそれは「シジフォスの不条理」という言葉で知られ、それを極力簡単に説明します。「シーシュポス=シジフォス」とはギリシャ神話に登場する人物で、神を欺いた罰として、タルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられます。タルタロスとはギリシャ神話に登場する神であり「冥府・奈落」の象徴であり、「地底の最も深いところにある暗黒界」とされています。そこでシジフォスは大きな石をそのタルタロスにある山の頂まで運ぶのですが、シジフォスが岩を担いであと少しで山頂というところまで辿り着くと、その時、岩はシジフォスの手から離れて山から転げ落ちます。シジフォスは再びその岩を担いで、山頂を目指して行きますが、また同じように山頂寸前で岩が転げ落ちます。この苦行が永遠に繰り返されるのです。

日本でいうところの「賽の河原:さいのかわら」です。死んだ子供が親への供養として石を積み上げ、塔を作ろうとしても、その完成寸前で鬼に崩されてしまう。そして、また石を積み上げて塔を作ろうとしますが、同じことの繰り返しとなります。まさに「徒労」であり「報われない努力の繰り返し」です。「シジフォスの不条理」同様、救われることのない永遠の苦痛です。そこに「不条理」という言葉が使われますが、この「不条理」とは「不合理」であり「非常識(常識とかけ離れている)」であり、「ナンセンス:無意味」であり、なぜそのようなものがこの世に存在するのか、考えることさえ、憚ることなく言えば「滑稽」となります。もちろん、笑いなどとは無縁の「虚脱」です。

人の世のそうした「不条理」をテーマにした文学で有名なのはカフカ、カミュでしょう。個人的には、あの世界大戦を終えた後の文学は、その殆どがこの「不条理」をテーマにしていると思います。本サイトの「文学・評論 その37」で「アメリカ文学の中の『ブラック・ユーモア派』」について書きましたが、そこでのコアには同様の「不条理」が横たわっていると思います。かなり昔に読んだ(おそらく)大岡昇平の作品の中に、「不条理とは、硬い歯の中でうごめく舌のようなもの」という表現があったように記憶していますが、何となくシンプル過ぎる文脈に、拍子抜けました。しかし、今思うと、その表現の軽重はどうであれ、そのようなものなのかもと感じます。格闘する相手ではなく、どこにでも自分のすぐ傍らに転がっているようなもの…。自分の日々の「楽しさ」「労苦」などの感情の間をまさに舌という軟体動物のように常にうごめいているもの…。その程度のものなのかも…。

別の所で書いたことですけど(どこで書いたか忘れました…)、漫画の「進撃の巨人」で、少女のミカサ・アッカーマンが、両親を惨殺され、主人公であるエレン・イェーガーが賊に殺されそうになっている時、その景色の中で自分の能力(最大限にその運動能力を解放できる)に覚醒する瞬間「そうだ、この世はもともと残酷に出来上がっている」といった言葉を心に思い浮かべるシーンは印象的でした。ミカサは賊を瞬殺し、エレン・イェーガーを大切な家族として命懸けで守ろうとします。ここに「不条理」なる言葉をもって何かを語ろうとするなら「少女のミカサ・アッカーマンは、殺し、殺される命で出来上がっているこの世を認め、その不条理の繰り返しを受け入れた」ということでしょう。「徒労」「報われぬ努力」などとは決別した瞬間であると思います。少々、深読みのような気もしますけど…。

しかし、この「不条理」なるものを考える時、そこに必ずしも「タルタロスの冥府・奈落」の景色が見えてくるのではなく、それは全ての人が持っている不可避なもの、言ってみれば「生まれもった罪、『業(仏教)』『原罪(キリスト教)』」であり、それを受け入れようとする行為が「人を人としてあらしめる」のではないかと感じてしまうのです。悲劇などというものは「=人の歴史」であり、歴史を学ぶという事は「殺し合い=戦争」を学ぶ、といってもいいような事実があります。とはいえ、人はいまだに「タルタロスの冥府・奈落」で全滅はしていません。健気に何とか現実と折り合いをつけようとしています。決して奇麗ごとを言おうとする気はありませんが、「シジフォス的不条理」「シーシュポスの岩」とは、それ故に「知恵」というものを人にもたらせてくれるのではないかと、思えてくるのです。

この世に本当にパラダイスがあるのなら見てみたいと思いますが、どう眺めても「この世はもともと残酷で不合理」です。で、人は生きています。悲劇から逃れられぬものの…。〆の言葉としては脱力系かもしれませんけど「生きる=不条理との闘い」ではなかろうかと、思うのです。であれば、人はみなシジフォスであるという事で、クレヨンしんちゃんの言葉、「シジフォス的不条理の肯定・自己同一化だゾ」が妙にストンと腑に落ちてきます。

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