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社会・政治 その9「合従連衡 紀元前からの外交の定石 縦横家」


本 「合従連衡(がっしょうれんこう)」とは現代の政治世界でも政党の離合集散・再編の際によく使われる言葉です。しかし「離合集散=合従連衡」では全くありません。前者はただの「行為」の事、後者はれっきとした「外交戦略」の事です。概観するに、往々にして日本の政党勢力再編とは「勝ち馬に乗るための離合集散・ドタバタ劇」に見えます。紀元前に、既に唱えられている「合従連衡」と一緒にするな、と彼の時代の人が現代を見たら言いたくなるでしょう。命がけでやっていた訳ですから。ちなみに簡単にいえば、「合従」とは「大国に対して小国が連合して対抗する戦略」、「連衡」とは「生き残りのために大国が小国と手を結ぶ戦略(で、他国を攻める)」です。往々にして「合従」は余程「志の高いリーダー」がいなければ成立がかなり難しい。利害の調整が困難だからです。「連衡」は、大国への従属という点を割り切れば(同盟の条件として領地や人、宝物を献上しなければならない)比較的簡単でしょうが、破綻すれば、小国が大国に呑まれてしまうか、大国が小国に他の大国に寝返られて攻められます。

そうした外交策が盛んに用いられたのは紀元前の春秋戦国時代の後半、戦国時代(紀元前5世紀~紀元前3世紀)でしょう。この時代は既に別の編でも書きましたが、「秦・韓・魏・趙・燕・斉・楚」の「戦国の七雄」の時代です。この中で大国といわれるのは「秦・斉・楚」。韓・魏・趙の3国はもともと晋という一つの国でしたが戦国時代に入って3つに分かれた国です。燕は古い国のようですが内乱で相当に弱体化していたようです。この4つの国が小国であり、強大な秦・斉・楚の大国に挟まれ、常に侵略を受け続けていたようです。魏は大国のレベルにあった時期もあるようですが、内政の失敗から隣国秦に脅かされる小国になってしまったようです。大国とて、安閑とはしていられません。無敵の大国は存在しませんから、いつ、どことどこが連合して攻めて来るか分かりません。
   
こうした複雑な利害で国家としての体裁をそれぞれに保ち、かろうじて七つの国が成り立っていた訳ですが、それまでは「武力」で自国を守っていたのでしょうけど、武力行使、つまり「戦争」を続けるにはいかなる大国であろうとも国力の疲弊を伴います。下手をすれば戦っている相手と共倒れです。そこで各国は様々な「外交(交渉)」手腕を繰り広げて生き残りをかけようとします。その担い手となったのが「縦横家(じゅうおうか)」と呼ばれる「弁舌・策謀の徒」です。縦横家の呼び名の由来は「合従連衡」にあり、当時、西の端にあった秦が最強の大国となり、それ以外の「南北に並ぶ国」が「縦」であり「合従策」を用い、強国秦と「東西に並ぶ国」が「横」であり「連衡策」を用いた事に拠るようです。その国々に巧みな弁舌とアイディアで自分を売り込み、高い地位を得ようとしたのが「縦横家」です。

余談ですが、この「縦横家」を中国古代の「諸子百家」に連ねて記されていることがありますけど、彼ら縦横家には「思想」と呼べるものは無く、体系だった「論」もありませんから、これは別物であると考えるべきです。その才知と運を武器に諸国をまさに「縦横」に行き通った人々の事です。その中で、「弁舌で一国を取る」と恐れられたのは、蘇秦と張儀でしょう。この二人は、軍略の大家「鬼谷子(鬼谷先生)」に共に学び、「合従策」を唱えた蘇秦が戦国第一の縦横家であると評されていますが、私は「?」です。蘇秦は「合従策」により、六国をまとめて秦に対抗し、六国の宰相も兼ねたとあります。しかし、史記に記述はされているのものの、蘇秦の存在・功績に「史実との矛盾が多い」との指摘もあり、史記を書いた司馬遷自身も、鬼谷子ともども「後世の創作では」と疑いを持っていたようです。
   
やはり、戦国第一級の縦横家は「張儀」でしょう。その理由は、司馬遷の疑義もありますが、経済改革後の中国ドラマで戦国時代をテーマにするとき、「鬼谷子」も「蘇秦」も出てきません。おそらくは「時代考証」によるものでしょうけど、「合従策」も「連衡策」も張儀が唱えたものとなっており、張儀が強国秦の客卿となって主張したのが「連衡策」で、秦に迎えられる前の不遇な流浪時代(張儀は魏の人)には天下に「秦を倒すには合従策しかない」と檄を飛ばしていたようです。で、張儀が秦の宰相となり、その秦に対応するために「合従策」のリーダーとなったのは魏の公孫衍。彼は「犀首(さいしゅ):犀の首」と呼ばれ畏れられる、魏の名将。ちなみに、犀の皮は当時「貴重で高価なもの」の代表で、首とは「頭」の事と思われます。つまり、「それ程に貴重な知将」という事です。この公孫衍が見事に「合従策」を用い、秦の国は函谷関(秦の最後の砦)まで攻め込まれそうになりますが、張儀の巧みな「連衡策」で合従を切り崩し、何とか秦は難を避けるというのが何度かある「函谷関の戦い」でも一番の見どころです。合従策の弱点は「一国でも途中で裏切ると、作戦行動が失敗する」という点です。まあ、連衡策にしても弱点は「裏切り」ですけど、「外交(交渉)」の戦いが続くのです。
   
この張儀が活躍した後、秦はますます強大化し、新たな「遠交近攻」の策によって他の国を全て呑み込み、やがては「秦の始皇帝」の登場となります。「遠交近攻」とは「遠くの国と同盟を結び、近くの国を攻める」戦略です。そのベースは「合従連衡」でしょう。張儀に代表される「縦横家」を「舌先三寸と二本の足で人心を操る輩」とのネガティブな見方をする人もいますが、これって、簡単にできる事でしょうか? 失敗すれば命に係わる事ですよ。おそらく、縦横家を苦々しく思っていたのは武将たちでしょう。最後に戦争での出番があったとしても、その功は外交での立役者に持って行かれます。武将は戦で武功を上げてナンボ。その戦が外交で操られれば、自分たちの地位は低くなります。事実、張儀も「功を独り占めしている」として秦を追われます。公孫衍も、合従策をことごとく張儀に破られ、戦国の舞台から消えて行きます。あくまでもドラマでの演出でしょうが、中国ドラマの中で最後に、歳を取り、落剝した張儀と公孫衍が再開する場面があります。嘗ては敵同士であり、己の知略と矜持をかけて戦いあった二人が旧交を温め、互いを讃えあう場面は、予定調和的な筋書きとはいえ、「志」をもった男同士がやっと迎えた安息のひと時として、なかなか良い演出のドラマでした。

これまた余談ですが、経済改革以前の中国ドラマはあまり見ませんでしたが、それ以後のドラマ作りには目を見張るものがあります。全く違う。脚本も役者も画像も数段にレベルが上がっています。春秋戦国時代や、秦の始皇帝、項羽と劉邦、水滸伝、三国志と、素材には事欠かない国ですから、歴史好きとしてはなかなかに楽しませてもらっています。

それはさておき、「合従連衡」は二千年以上も前からの外交(交渉術)の定石です。しかし「志」ある者がいなければ機能しない策です。政治だけではなく、企業もそうです。くっついたり離れたりは派手にやっていますが、くれぐれも、ただの「離合集散」と「合従連衡」を取り違えられませんように。

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