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その他 その20「あしたのジョー 何者?」


本 CATVで昔の懐かしい番組を楽しんでいます。最近では殆ど地上波は見ません。私の世代がリアルタイムで接してきた映画やアニメ、親の世代が接してきた映画など、スポーツも含めて、楽しんでいます。バラエティだらけの民放は食傷気味で、というより、元から興味がありません。それはさて置いて、いくつかの昔の作品を見る中で何度でも見てしまうものがあります。その一つが「あしたのジョー」。私はその雑誌での連載開始から、アニメ放映にリアルタイムで接している、「あしたのジョー」のコア世代だと思っています。雑誌は「週刊少年マガジン」で1968年(昭和43年)から1973年(昭和48年)に連載され、テレビアニメは1970年(昭和45年)から1971年(昭和46年)に放映されています。確か、雑誌連載開始ではちばてつや独特のタッチでジョーの横顔がタイトルで描かれ、そのジョーが「泪橋」を渡って行く所から話が始まったように記憶しています。タイトルが「あしたのジョー」…。それがボクシングのマンガだとは連載開始時点で分かりません。

しかし、数多いちばてつやファンの一人である私は子供心に、氏の連載マンガの始まりにワクワクしていました。ちなみに、漫画といえばあの有名な「トキワ荘」の手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎(1985年、石森から石ノ森に改名)、赤塚不二夫らの巨匠が全盛期を迎えていた時期ですけど、ちばてつやは別格で、これはある雑誌社の編集から聞いた話ですが、一番「原稿料」が高かった漫画家は、ちばてつやだったそうです。私は手塚治虫だと思っていましたが…。余談ついでですが、かつてこの巨匠たちは貸本屋(ご存知?)の時代から、漫画雑誌登場の時期には「少女マンガ」を描いていました。マンガは少年マンガより少女マンガのほうが先に隆盛を迎えていたという事です。
     
「あしたのジョー」は原作者が付いており、この高森朝雄が梶原一騎であるというのはよく知られている事と思いますが、当時は「巨人の星」でブレイクしており、同じ雑誌で同一人物が原作として付くとなると、読者に同じような内容のマンガだと先入観を持たれる事を懸念して、別のペンネームを使ったようです。しかし、タイトルの「あしたの…」というのは他のマンガにはない、陳腐な表現ながら「文学的」な匂いがしました。当時のマンガのタイトルは「巨人の星」や「おそ松くん」「天才バカボン」「サイボーグ009」「タイガーマスク」「ハレンチ学園」等々、主人公の名前やジャンルを表すような分かりやすいタイトル(どんなマンガか見当が付く)でしたが、この「あしたのジョー」はタイトルだけではどんなマンガなのか分かりませんでした。しかし、当然ながら、読み始めればドンドンとストーリーに吸い込まれていきます。ジャンルも、丹下段平が出てきたところで「ボクシング」である事は分かりました。そして、力石徹の登場…。

「あしたのジョー」ファンにとっては、ジョーよりも強烈な存在感を感じるヒーローです。カッコ好すぎます。この力石徹に関しては、原作ではジョーと同じような体格で設定されていたようですが、ちばてつやが力石の方をジョーよりも大柄に描いたので、ボクシングの階級が違ってしまい、例の、力石徹の最後の試合、「大減量」の話へと展開したというのは、多分、「あしたのジョー」ファンにはよく知られている事だと思います。原作の梶原一騎とちばてつやは相当に揉めたでしょうね。事実、決裂まで行きかけたそうです。しかし、いくら売れっ子の原作家といえども、ちばてつやの圧倒的な人気は別格です。結局は梶原一騎が折れざるを得なかったようです。というより、私は、「あしたのジョー」は、ちばてつやが創り上げた作品だと思っています。あの有名なラストシーン。ホセ・メンドーサとの闘いで「真っ白に燃え尽きた」ジョーの姿…。マンガ史上、最高の傑作だと思います。これは、ちばてつやが考えたシーンで、原作にはありません。
     
ジョーについて語り始めると、話があちこちに行ってしまいますが、とにかくこの「あしたの…」というタイトルはジョーのキャラクターと相まって、社会現象にすらなりました。よど号ハイジャックの犯人が「われわれは、あしたのジョーである」と言った事や、寺山修二らが呼びかけて「力石徹」の葬儀を行った事や、三島由紀夫も大ファンであったそうです。ジョーはあのラストシーンで「死んだのか」「いや、死んではいない」といった議論も盛んでした(多分、未だにそうでしょう)。梶原一騎は「あしたのジョー」はちばてつやが作り出したものであることを認めており、ちばてつやは、読者全員が創った作品であると言っています。「あしたのジョー」が、ちばてつやの天才的な画力で描かれたのは事実ですが、時代の「懐」に深く喰いこんで行ったこの物語の主人公であるジョー、矢吹丈(やぶきじょう)とはいったい…?

キャラクターの魅力、ボクサーとしての生き方、その価値観…。どれも惹き付けられるものはありますが、社会現象ともなり、未だに多くのファンを持つこのジョー、「あしたの…」という暗喩ともいうべきものが、高度経済成長期真っ只中の日本にマンマで刺さったのでしょうか? 確かにそれもあるでしょう。アニメの、尾藤イサオのオープニングテーマ・ソング、ジョーの声優あおい輝彦の蓮っ葉な台詞回し、様々な登場人物、それらが魅力あるストーリー展開を創り上げ、見る者を引き込んでいくのは「名作」であれば当然の事です。
   
私は「あしたのジョー」の最大の魅力は、力石徹やカルロス・リベラとの戦いで見せたジョーの人間臭さを土台にしながらも、ジョーは一度も「弱音を吐いたり」「逃げたり」「名誉を望んだり」「欲も見せず」「物怖じもせず」、目の前にあるものと真っ向から対峙して闘うというその姿が、「あしたの…」という名タイトルと見事にマッチした所にあると思います。その当時のマンガの主人公は「巨人の星」にしても「タイガーマスク」(どれも梶原一騎の原作ですけど)にしても、その主人公は極めて内省的です。星飛雄馬は何かにつけ泣きます。タイガーマスクの伊達直人は矢吹丈と同じように「孤児院(いまでは死語でしょう)」という背景を持ちますが、伊達直人はそこから離れられず、孤児院「ちびっこハウス」とその子供たちのために戦います。しかし、矢吹丈はその孤児院を語る事もなく(何作目かの映画ではその孤児院時代のジョーが出てきますが)、少年院に送られる前の鑑定で、「親」という言葉に「無責任」と答えていますが、どう見てもそれを恨んでいるようには思えません。そうしたケースヒストリー(生い立ち)を抱えながらも、その事を一言もいいません。あえて、その事に触れたセリフは、映画版アニメの中で、孤児院から脱走して一人彷徨う自分を思い出しながら「これでいいんだ。おれはいつも一人で生きてきた…」という言葉くらいです。「後ろの事」は何も語らず、それを背負ったまま目の前の事に向き合う。このようなキャラクターがマンガとして登場したのは初めてだと思います。

ホセ・メンドーサとの戦いの前に、白木葉子からパンチドランカーの身で戦う事を必死で止められ、「好きだから」との告白を聞きながら、「ありがとうよ…」、「けど、俺を待っているやつがいる…」と言ってリングに向かう姿は、ファンとしてはもうエクスタシーです。個人的には、ジョーほどカッコ好くなくとも、そのように生きてみたいのです。多くの人がそうなのではないでしょうか。そんな思いを抱かせてくれる存在が「マンガ」の中にいたのです。「マンガ」の中に現れたのです。そして、あの名ラストシーンを目に焼き付けられたまま未だに思います。「ジョー、お前は何者? 今、どこにいる!」。

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